圀弘日記


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2015年3月4日茨城沖縄県人会第19回総会・新年会 その12

3月3日のブログへのアクセスは55回でした

茨城沖縄県人会会報19号発行に向けて           金 城 圀 弘
皆様本会も19年を迎えましておめでとう御座います。毎回の会報発行には多大なご尽力を心から感謝申し上げます。訃報を冒頭に書かせて戴くのも心苦しく思いますが、前年11月初代会長宮国幸栄氏が永眠なされました。在任中の多くの功績を讃え心からご冥福をお祈りいたします。
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戦後、それからの私たち       金城圀弘
沖縄県島尻郡高嶺村字与座部落で、1945年6月13日に米軍将兵に捕虜となり、戦火の続く同県南部地方を徒歩で連行され簡易収容所に集められた。生存した人々が戦争の怖さを窺わせるごとく大勢の人達が収容されていた。「南城市玉城村垣花」から更に移動し知念百名ビーチの砂浜からLST(上陸用艦船)に乗せられて、同県中部に移された。LSTの甲板は鋼板で冷たい感じがした。甲板には簡易便所がドラム缶を半分に切断した3個連結の装置で、その上に板を渡した簡易水洗便所で海水を流した囲いのないオープセットだった。海洋移動を約1時間後、ヤンバルに到着しトラックで名護市嘉陽部落に着いた。砂浜に2,30張りの大きなテントが張られ、其処が簡易収容所だった。床は砂地で近くの草を刈り集めそれを敷詰めて砂地から身を守る状態であった。暫くすると、敷いた草が醗酵して衛生的にも悪くなり、敷き変える状態が日課になっていた。食料品配給は量も少なく栄養失調が続き、蚤、虱が多く発生し健康を害し病気が蔓延した。マラリアも発生しキニーネという薬を飲まされて治療したが、マラリアの恐ろしさを知った。症状は最初寒さが襲い、何枚の布団をかけても寒く、人が布団の上に乗ってもガタガタ震える。落着くと今度は高熱が40度にも達してくる。頭はガンガン痛くなり病人は、グッタリ疲れて死んだように眠りに入る。栄養失調は酷く、弟は骨と皮だけでお腹は膨れ、目はギョロギョロしミイラのようになり「時雄立って」と言うと、手で柱を掴んで震える体を直立させる。TV映像で観るアフリカの栄養失調児を思い起こす状態だった。兄は朝早く蛙を捕獲して弟に食べさせ、少しでも栄養の足しになるようにした。早朝は露を食べにハブも出て非常に危険である。他に野鼠も捕獲して食べさせた。今思えば大変な食料不足で、一緒に与座から行動を共にした親戚の方々も栄養失調や病魔に負けて死んでいった。死人の顔は血の気が無くなると、顔中虱が這い回り真っ黒になりその状況は身震いする状態であった。兄は死体の埋葬作業を手伝いお礼に米を貰ってきて食料に役立てた。この厳しい環境の時期に台風が吹き荒れて大きな被害を生じた。1945年9月(枕崎台風が襲来)北部嘉陽村に津波が押し寄せ砂浜には大きな魚が打ち上げられ、アランバー(砂防林)で阻止した魚を拾い食した事も記憶に残っている。戦後初めての学校が開校し1年生の授業は砂浜に集まって、手のひらで砂を慣らしA、B、Cと指先で書いて学んだ。暫くして藁半紙、鉛筆が配られ一本の鉛筆を半分に切断し、2人で一本の鉛筆が配られた。運動会で弁当に美味しい弁当だと、兄はトーモロコシを細かく粉にした天麩羅を持って来たが、ゴツゴツして食べられる代物ではなかった。食用油もなく、鉱物油(モービルNO30~50番)が食用に使われた。機械油のオイルを食用に使用した戦後の食糧事情は大変な経験だった。食用に出来る野の草、木々の葉も殆ど食べて餓死を凌いだ。日々、病魔と栄養失調と闘いながら生き延びた。家族は1年後、糸満へ移動して焼残った家屋を探して生活を営んだ。糸満で兵役に駆出されていた父と再会したが、父もマラリアに感染して暫くは寝たきりの状態だった。食料調達に母は近郊を歩き回り少しのサツマイモや野菜類をかき集めて、我々の胃袋を満たしてくれた。戦後間もない時期、家の付近には、弾薬、不発弾が散弾して危険区域が設定されていた。其処へ食料収集に行くのだから大変で、自警団により取締りがなされていた。折角集めた貴重な食料も自警団に没収されて、惨めな思いで帰った日々も多かった。餌を待つ小鳥のように母親が帰るのを待ち望んでいたのが懐かしい思い出として残る。その後、食料配給も少しずつ多くなり栄養失調からも救われるようになり、戦後の復興も徐々に進み昭和21年8月高嶺村に移動が許された。国吉部落で親戚と一緒に共同生活が始まり、皆の元気な姿に喜びを噛締めた。しかし、生まれた土地への立入り禁止が続き、故郷には暫く入れなかった。昭和22年9月部落民が話し合い部落周辺に山済みに放置された弾薬を米軍の大型トラック10トン車に積み込み港川港から沖合い10マイルの所までLSTで運び海へ投棄した。トラックの台数は千何百台分に及んだと言う弾薬処理が済んで初めて故郷への移住が許可された。平和の世が永久に続くことを希求する者である。

2015年3月4日茨城沖縄県人会第19回総会・新年会 その12を更新いたします
7 三線
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8  会談
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3月4日「天声人語」
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誕生日の花
《 3月4日の誕生花と花言葉 》
ムラサキケマン(紫華鬘・ケシ科)
あなたの助けになる
学名:Corydalis incisa
 別名:ヤブケマン(藪華鬘)
 花期:春
 平地や山麓の日陰のやや湿った所に生える越年草です。華鬘というのは仏殿の欄間などの装飾具のことです。葉は 2,3 回羽状に細かく裂け,裂片には更に深い切れ込みがあります。花は紅紫色,ときには白で,長さ 2 センチくらいの筒状です。
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by kinkunihiro | 2015-03-04 10:09 | 茨城沖縄県人会関連 | Comments(0)
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